palewhite’s diary

心模様は、日々さまざま。

相手の期待に応えないという愛情

自分をさしおいても、できることは全てすることが愛情表現だと思っていた

人には生きてきたなかで身につける癖がある。

それは呼吸をするように当たり前で、その人が生きる上での
生存の基礎ともいえるような癖。

私の場合は「大切な人の期待には自分を犠牲にしても全力で
応えたい」というものだった。
これらの癖は小学高低学年くらいまでに心に定着する
思考パターンだと感じている。

お母さんを助けなければならない、だって可哀そうだから

子どもは熱烈に母親が好きだ。

6歳の頃私は熱が出ていたのに無理をして保育園へ登園した。
「大丈夫?」という母の顔は心配でゆがんでいる。
ひとつは、娘が苦しいのではないかという心配。
もうひとつは、この娘が保育園を休むと全ての段取りが
狂ってしまう、そのことへの心配。

じりじりとした焦りと心配の熱気を浴びて、熱のある私は
「うん、大丈夫。」と期待された言葉をはっきりと言う。
コートを着てマフラーを首に巻き、ミトンと呼ぶのが相応しい
厚手の毛糸の手袋をはめて、母と妹と私はみぞれの溶けた雪道を歩く。

私の前には妹と手をつないだ母。
私はその後ろ。
熱があっても外が寒くて好都合と考える。
子どもの頬は寒いときも赤くなるから、
「私の頬が赤くても、ママは寒いからと思うだろう。」
と子供の私は安心する。
「この人は心に不安を抱えているから、私は心配をかけられない。」
と子供が母親の役割を無意識にしていた。
そして雪道を歩きながら「ママが好き。」
と熱烈に感じて、ずっと好きでいることを誓った。

自分をまず大切に、相手に自分を粗末に扱わせることはさせないという愛情

私の「大切な人の期待には自分を犠牲にしても
全力で応えたい」は、部分的にはあっている。
今でもその気持ちは私の心に存在するし、
それは大切にしている。

ただし自分を尊重したうえで、相手の期待に応えることが
本当に相手のためになるのかという二重のチェックをしてから
行動は起こすようにしている。

大切な人であればあるほど、相手が困っているように見えたり
言葉で助けてほしいと訴えてきたときには、すっとんでいって
助けたくなる。
自分のことは二の次でいいと思いそうになる。
この対処法は火事には有効かもしれないが、普通の生活では
要注意だ。

相手は今は困っているかもしれない、でも切り抜ける力を
持っているから放置する方がいい。
相手を助けて自分をおろそかにして最終的に相手を恨み自分を
憎むくらいなら、相手を助けない。

自分を粗末に扱った人を、人は愛することができなくなる。
自分自身を粗末に扱うと、自分を嫌いになる。
だからそういうことは最初からしない。
依存気味になっている人を拒否することで、相手に自分が自分
の人生に責任をおうことを思い出させる「期待に応えない」
という行為の温かさ。

もしかしたら、相手は自分の思い通りにならない私を嫌いに
なるかもしれない。
付き合いが絶たれるかもしれない。
ずっと不満をもたれるかもしれない。

そういう相手からの自分にとっては嬉しくないリターンが
やってくることを見越しても、相手の期待に応えないでいる。
それが最近上手にできるようになってきた。
「なさぬものは、なりませぬ。」
私の生きるうえでのモットーのひとつだ。

世の中にはかわいそうな人はいない。
自分をかわいそうに思いこんでいる人はいるけれど、
その目の前の人が心に不安を抱えていても大丈夫。
自分を犠牲にしてまで救う必要もない。

胸に手をあてて自分の「助けたい」という気持ちを確認する。
愛からでた助けたいなら、相手に必要なだけ存分に関わり
助けさせてもらう。
不安からでたものなら、助けたいという気持ちを見つめて
手放す。
相手を信頼して、相手に任すのだ。

もしご縁があれば、離れても真意は伝わる。
伝わらなくても、相手に応えないという愛情は
存在して循環する。