palewhite’s diary

心模様は、日々さまざま。

愛がなくなったのではない、愛するのをやめると決めただけ

愛って何?

私は離婚をしているのだけれど、まだ愛には熟練していない。

けれど、付き合っていた頃から数えると22年間一人の男性だけと

向き合ってきたから、愛の初心者くらいにはなっていると思う。


世の中には「愛だの、恋だのは結婚したら言ってられない」と、

愛も恋もいっしょくたにして、生活という現実と折り合っていくことを

当たり前と主張するヒトもいる。

「旦那(嫁)に対する情はあるけれど、愛してるかといわれると・・うーん。」

歯切れ悪く言葉を選び選び伝えてくれるヒトもいる。


皆、本当は「愛」に興味がある。

じゃあ、愛って何?


古の賢人や、婚活の本の作者、アーティスト、政治家、様々なヒトが愛を語って

いるし、国語辞典にも意味はのっているので何かについては割愛。

私が結婚生活について、最近つらつら感じていることを書いてみる。

私にとって愛は、愛することを継続すると決意し実行し続けること

私の場合、愛は現在進行形。

英語のing形。定まった定義じゃなくて、男女の愛の場合は愛するということを継続し積み重ねること。

愛は相手の暗い面やマイナスポイントも知ってから、それでも相手を丸ごと受容していき、相手がどうであれ

自分の愛情をささげると決めることだ。

教会での結婚式で「病めるときも貧しきときも・・・」と神父(牧師)様が語られるが、

相手の嫌な面を見ても、逃げない、嫌いにならない、愛し続ける意志力が一番大きいと感じる。

何かのご縁があって夫婦となった相手を選んだ自分自身の選択に責任を持つというか。

大好きで結婚した相手や結婚して愛情が増した相手が期待はずれなことをしでかしてもたいていは

許せるし、相手の立場になって考えたら、許すとか許さないじゃなくて「そっかー・・・。」

と納得できたり共感したりできてきた気がするのだ。


時々結婚生活について葛藤のあるヒトと接していて感じるのだけれど。

夫や妻に不満を抱いたり、相手の態度に寂しさを感じることは誰にでも、ある。

そんな積み重ねから、ふらりと他の異性に目が行くことがあるかもしれない。

それは想像できるけれど、それでも踏ん張って仏頂面でもいいから相手と向き合うと

いいんじゃないかなと個人的には感じる。

もっとも私たちが幸運に他の異性の介入がない結婚生活を送れたから結果としてそういえる面もある。

いろんな事情もあるし、特別な場合もある。

けれど、自分の欲求不満を解消したり刹那的な快楽を求めるために配偶者以外の異性を求めるのは、

子どものいる場合は特にリスクも高いし、踏みとどまれるなら踏みとどまったらどうかしら?と友人なら

おせっかいを言いたくなる(基本何もコメントしないけれど。)

何故かというと、私たちが離婚後気持ちの良い関係を築けているのは、お互い以外に第3者が

介入していないからだ。

もしもどちらかの不倫が原因の離婚なら、こんなに早くからスムーズな離婚後の

生活再設計はできなかっただろう。

もちろん離婚するためにではなく、相手を信頼して結婚生活を続けるためにも第3者は介入しない方がいい。

愛はシンプルな方が扱いやすいと思うから。


「これだけは許せない」という私の人間としての尊厳を元夫が踏みにじったと感じたので、

愛することはやめて離婚したけれど、それまでは愛することをやめなかった。

夫と向き合い愛することを継続し選択していたからこそ、やめることを意識的に選べたと思う。

離婚をしたからといって無関心になったわけではない。

元夫には情は感じているし、私との組み合わせはもうないけれど、ご縁があれば他の女性と

幸せになってほしい。

愛することをやめたからといって憎しみはわかない。

いさかいや絶望や言い争いの中で互いに憎みあうくらい腹の底までさらけ出し付き合った後に残るのは、

限りなく友情に近い気持ち。

たぶん元夫もそう思ってくれていると信じられるのが嬉しい。

彼の気持ちは尋ねていないけれど、人生は錯覚の積み重ねでもあるので、私は自分が感じる感覚を信じる。

こんな風に、ひとりの男性と徹底的に関われたことを幸運だと思う。

結婚生活を続けるなら、向き合ってみては?

私の離婚を知り、自分の心のザワザワをおさえきれずにぶつけてくるヒトがいる。

そのヒトは自分の結婚生活に迷いや悩みを持っている。

夫の浮気、双方の無関心、妻の不倫、いつの間にか広がった心の距離。

私がすっきりした顔をしているのが不思議らしい。

その思考回路は「元夫を嫌いだからすっきりしている。」にどうも行き着いている様子がうかがえる。

でもそれは違います。

私が「元夫には感謝しているし、幸せになってほしい。」と話すとそのヒトの??は膨れ上がり

何ともいえない顔をする。

そして私を理解不能、もしくは偽善者と感じて、得体のしれないイライラで勝手に不機嫌になっていく。

でもね、本心を語っているだけだから。こんな別れ方もある。

ずっと愛することを選択してきたから、愛することをやめる選択をしてもやりきった感がある。

だからすっきりしているの。

嫌いというのは形を変えた相手への執着でしょ。

それは、私にはもうない。

それに嫌いは形を変えた愛の場合もあると思うよ。


わからない人に説明しても、上りと下りの隣り合った別々のエスカレーターに乗っている者同士が

声を投げ合うように、行き先が真逆なので会話は噛み合うことはない。


結婚生活にとどまり、相手を愛することは中断していても結婚生活はやめないでいるのね。

じゃあ怖いかもしれないけれど、もう一度相手と向き合ってみたら?

自分から、笑顔でも言葉でも差し出そう?勝つとか負けるとか置いといて。

話が通じそうなヒトには助言を求められたときにはそう言うようにしている。

別れて格好良くなった元夫の姿を見られるのが嬉しい

元夫は娘と私のためにきっちりとマンションのローンと養育費を支払い、休みの日は娘と面会している。

昨年は「えー・・。」と面倒くさそうだった小学校の運動会も、勤務先の同僚のお孫さんが娘と同じ

小学校に通っているらしく、運動会の日を休みにしてあった。

授業参観に顔を出し、まだ新しい組で仲良しがいない娘のことを私と共に案じて見守っている。

「子育ては母親の仕事だろ。」と私に吐き出すように言ったこともあった元夫は、離婚して

かつて私が好きだった彼の良い面を取り戻したと、行動を見ていると思う。

自分が信じて結婚した相手を、別れてからも良い人間だと信じられることが私にとっては

ものすごく有難い贈り物だ。

愛することをやめたけれども、愛したことは間違いではなかったと感じられるから。

そして、私が関わった男性には永遠に格好良い男でいてほしいから。

愛することをやめても、愛した記憶愛された記憶はずっと心を温めてくれ、自分にとっての誇りになる。

愛を語るなんて日常生活では恥ずかしくてできないけれど、ここは私の庭だから書きたいように書く。


親子の愛、子弟の愛、愛にはいろんな種類があってそれぞれ尊いけれど、私を解放してくれた元夫の

愛に応えるためにも、私はこれからの人生を大切に生きる。

愛は一緒にいることだけじゃなくて、別れることが愛なこともある。

まだ愛の初心者だけれど、これは言えるのは、愛はなくならない。

素面でこんなことを書ける自分につっこみたくなる、不思議な日。

今日は運動会のためのお弁当の材料を買い出しにいかなくては。

日常の中に、哲学が在る☆