palewhite’s diary

心模様は、日々さまざま。

背伸びした課題を自分にあたえること 仕事で鍛えられる有難さ

書きたいことが溢れてオーバーフロー

明治の文豪の本はあっても、ほんの二十年前の本は、
販売システムや効率優先の今、書店では、ほぼみかけない。

今月は須賀敦子についての書評を書いている。
1998年に亡くなったこの作家は、根強いファンが存在し
テレビで特集を組まれたりもしたけれど、もっと知られても
よい作家のひとりに感じる。

だから前から紹介したいと思っていた。
短編を読むと胸がきゅっとなるくらい、その文章に
魅かれているのに、原稿用紙にうまく収まるように
書いていくと、作品の、作家の輪郭がぼやけていく。

それでも何度かの草稿をへて編集長にお見せしたのだが、
中途半端という指摘を受けて返却された。
青白く光る刺身包丁で刺身をつくるように、弱点のみ
薄くそいで並べる、見事な編集者の手さばきに脱帽する。

料理のさじ加減や、隠し味、何でもいいけれど、これで
ピリッと味がきまるものってあると思う。
編集長に校正してもらい複数の目で原稿を確認することは、
誌面で読者の方に料理(原稿)をふるまう前の欠かせない
大切な儀式だ。
編集長が味見をして「よかろう」と仰るものを提供することが
現在の私にとっての全力を尽くすことでもある。

この選書が難しくなることは、わかっていた。
でも私が書評を書きだして密かに実行しているのは、

あえて自分の力量では無理めな作品を紹介することだ。

120パーセントの力をだしたと思っても、あとで読み返すと8割程度の水準なのが新人ライターの私が書くものだ

何度も複数バージョンの文章を入れ替えして、これで決まり!
と思う瞬間が来た原稿を納品するようにしている。
それでも雑誌に刷り上がった過去の記事を読むと、気になる
箇所があることもある。

必死さは読者の方に伝わることがないように、軽やかに
さらりと読んでもらえるようにと願って書いている。
でもその反面、文章の製造過程では、何でもないような一文
でも絞り出していることもよくある。

全力を尽くしても、方向性がずれていたり力が及ばないこと。
これからも、きっとあるだろう。
でも、それが私の望むところ。
仕事においては、身の丈は知る必要はないと思う。
少し無謀でも、かじりついても、等身大の自分より
大きなものに挑戦することで成長が見込めるからだ。

今回2日間時間をいただいたので原稿を練り直すことができる。

気がかりだった娘の中学校受験願書は提出したし、
受験票も届いた。
内履きやブラウスを新調するなどの細々したことは残って
いるけれど、ひとまず、ひとつプレッシャーから解消された。
次は私の番だ。

指摘をされなくなったら成長は止まる。
自分で自分に常に問いかけることを怠っても成長はない。
その辺りの洞察というか観察は、ひとりでは心もとない。
複眼の方がぜったいにうまくいく。

背伸びした課題であっても全て任せてくださる、ライターを
育てる気概を保ち続けている編集長という伴走者が存在する
心強さと緊張感を意識しながら、私はこれからも、ときには
冷や汗をかきながらでも、走りつづけたい。

地面は安定しているけれど地球が自転しているように、人生は
平穏な瞬間はあるけれど、常に動き物事も進んでいく。
娘の受験前でも私自身の課題は常に、目の前に現れる。

さて、どうしようか。
途方にくれているけれど前と違うのは、自分はちゃんと
成し遂げるということをわかっていることだ。