palewhite’s diary

心模様は、日々さまざま。

気づくことは、ひとりではできないこともある

頬につけたご飯粒は自分では見えない

「ほっぺにご飯粒がついてる」

「あ!本当だ。ありがとう。」

「スカートの裾がめくれてるから、直したらいいよ。」

「あっ!教えてくれてありがとう。嫌~。」

教える側、教えられる側の両方、こんな会話を交わしたことが何度もある。

身体周辺のことって、自分ではわからないことがある。

何だか違和感があるなとは感知できても、その正体が掴めなくて「むむ・・」と

悩んでいたら、誰かがやってきて、さらりと告げてくれる。

「洋服、後ろ前に着ていない?」


違和感の正体は、これだったのか、とそこで合点する。

心の中の違和感、もしくは「あれっ・・・そうだったのか・・」に気づく過程も一緒だ。

自分が持っている思考パターンについて、違う角度からの気付きを与えてくれるのが、私ではない他者。

リアルな友人の場合も、ネットで繋がる方の場合も、本人たちは自然に発言している言葉が、

私の心にすとんと降ってきて、それが落ち着くと、また新しい真理が見えてくる。

心を閉じていたワタシ

他の方が書かれたブログの記事を読み、「これは自分の傾向に当てはまる!!」と感じるものがあった。

その方の、他者へ向ける熱い思い(とても親切!)に感心しながら読み続けていて、ふいに気が付いたのだ。

自分は閉じていたのだなということ。


私には、他の方との交流や、皆さんの目にとめていただくという視点は抜け落ちていた。

日記を見てくださる方の存在はとっても嬉しくて、見てくださった方のブログを

訪問して新しい世界を垣間見て喜んでいたのだけれど、それでも私は閉じていた。

読者の方うんぬんの前に、私は自分の浸食されない世界を創ること、

それを維持することで精いっぱいだった。

ブログの内外に敵がいるという意味ではなく、離婚前後の壊れそうに薄く脆くなっていた心を、

そうっと守っていたのだ。

このブログは、離婚前の揺れる状況で書き始めたブログだったから、揺れる気持ちを文字にして

感情を昇華させることは、セラピーのようなものだった。名付けて「日記療法」。



「鬱になってないし、元気だし、すごい頑張ってる!」

「前より綺麗になったよ。」

という友人たちの温かい言葉は嘘ではないとわかるし、無理をしてポジティブにも振る舞ってはいない。

日常生活、外面は健闘してきた自覚がある。

でも内面は、そんなに急に切り替えて、しゃきっとはできない。


日記を書き、こじんまりと、そう寒い日に自分の身体に毛布を巻きつけて暖を取るように、

ふわふわした優しい肌触りの柔らかい繭にくるまれてサナギの私は、

静かに自分のブログの世界で完結していた。

ひとり遊びに夢中な幼い子どものように、満足していた。

この時間が必要だった。

でも数日前、ある方のブログを読んで、自己完結していたことに気が付いたら、

また一歩を踏み出したくなってきた。

ふいに気づきは訪れるから、それまで時が満つるのを待つのは大事。

自分に厳しすぎたワタシ

気づくことは、ひとりではできないときがある。

通りすがりに見える看板、電車の宙吊り広告、カフェで隣の席から漏れてくる会話の断片。

あらゆる日常に、間接的にヒントやメッセージは隠されている。

それらを感知することはかなり得意。

でも直接ヒトからもたらされるメッセージを受け止めるのは、そこまで得意じゃなかった。

ちなみにブログの記事は、直接もたらされるメッセージの範囲にいれる。


「自分に厳しすぎる、それじゃあ自分が可哀想。旦那さんにも厳しかったと思うよ。」

友人が言ってくれた言葉が耳に痛い。

「・・そうだと思う。他人はどうでもいいというか、大らかに見られるけれど、自分には厳しいの。
夫にも厳しかったと思う。」

仰る通りです、という言葉を正面から渡されて、それを真っ直ぐに受け止めると心が動いた。


もっと自分にも優しくしよう。

そういう訳で、手始めに今日は自分の外出予定をキャンセルした。

月曜日には見たかった映画を見に行く。

それから他の楽しみは、また考える。


良い一日を☆